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■ メロンパークの魔術師 |
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メンロパークの魔術師と呼ばれる快進撃が始まる。
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メンロパークに移ると、さらに精力的に研究に没頭した。
最初は電話機の発明である。
アメリカの2大発明王として、エジソンとグラハム・ベルを挙げる人は多い。
同じ年に生まれた事もあり、何かと比較される二人だが、対照的でもある。
ベルはエジンバラ大学、ロンドン大学で学んだが、二人の兄弟を結核で無くし、ベル自身も余命6ヶ月と言われ療養のためスコットランドからアメリカに移住した。
家は三代続いた音声学者で視話法の研究者を父に持ち、母も難聴であった事から、ろうあ者に関心が深くボストンにろうあ学校を開いたり、ボストン大学で音声学を教える傍ら、音声の多重伝送を研究した。この研究の最中、偶然に、電磁石を使ったマイクの原理を発見し、電話機の発明を志した。
ヘレン・ケラーにアン・サリヴァンを家庭教師として紹介したのはベルで以後ケラーと生涯交流があった。
エジソンが創立期に関係した後の世界的企業G・Eに対しベルの創立した電話会社AT&Tもアメリカを代表する巨大企業になり、ベル研究所はノーベル賞も輩出する世界的研究所になる。
電話機の特許に関しては有名なエピソードがある。
最初に電話機の特許を申請したのはエジソン(代理人の弁護士がエジソンに断りも無く出したと言う話もある)だったが、原理が大まか過ぎて拒絶されている。その後ベルが出願して、2時間後イライシャ・グレイ(後にファクシミリを発明)が出願したが、ベルの特許となった。
アメリカは当時も先発明主義だったはずだから、先に出願されても権利をとることは不可能ではなかったはずだが、グレイは諦めた。
権利はベルに下りたが、実用的な電話機として完成させたのはエジソンである。
ベルやグレイの電話機が聞き取りにくく、とても使える代物ではなかったのに対し、素材に木炭を使う事で難聴のエジソンでも聞き取れる優れものに完成させた。炭素マイクロホンと命名されたこの技術は、現在の電話機の原型となっている。
この時エジソンは30歳になった。
この年もう一つ大発明をしている。
電話機の発明の中で、音声を記録できないだろうかと考えた。センターに伝言をしておくと、後で聞きに行く事が出来る伝言板のようなシステムを考えたと言われている。
エジソンの完成させた錫箔円筒式蓄音機は世間をあっと言わせた。
人々は特別列車でメンロパークを訪れ,時の大統領はホワイトハウスに彼を招いた。
誰かが隠れて口真似をしているに違いないと思った牧師が、とても覚えられない宗教上の言葉を長々と喋っても、そっくり返ってくるので、唖然としたという記録もある。
しかし、その性能はまだ実用的とは言いがたかった。
その改良に名乗りを上げたのは因縁のライバル、ベルだった。
彼は錫箔円筒の代わりにろうを塗布したボール紙円筒を考案し、聞きやすくするためゴム管のイヤホーンを付けた。
エジソンは5日も不眠不休で更にその上を行く改良をしたと言われている。
ベルの元で働いて、その後独立して研究に取り組んだエミール・ベルリナーは円盤を用いることで針の縦揺れを横揺れに変える構造を考えた。現在に近いものである。
エジソン、ベル、ベルリナー、3人の開発競争はその後も繰り広げられ、音楽業界を発展させる源動力となる。
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白熱電球が発明されるまで、人類は長い間灯りと言えば蝋燭やランプのように火を燃やす方法しかありませんでした。
火を使わない灯り、それも昼間のように明るかったらどんなに素晴らしいだろう。
長年の人類の夢を実現したのはイギリスの薬品工場経営者スワンが趣味的に発明した白熱電球でした。
しかし、その寿命は40時間でした。
スワンが白熱電球を発明したと聞くと、1878年31歳の時「エジソン電灯会社」を設立し、白熱電球の本格的な研究に取り組みます。
最初に作ったものは木綿糸にススとタールを塗ったものを焼いて炭化させたものをフィラメントに使いました。その寿命は45時間。スワンの白熱電球を上回りますが、エジソンは実用化には600時間の寿命が必要と考えていたので最良の素材を探す長い研究が始まります。
しかし、この白熱電球を見ようと人々はメンロパークに押し寄せました。
余談ですがスワンは特許には熱心でなく、後にエジソンと特許係争を繰り返すが、1883年には和解してエジソン&スワン電灯会社を設立し、電灯生産を独占した。
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全世界から集められた6000種類にも及ぶいろんな材料を炭にして実験をしていたエジソンですが、ある日、机の上にあったシュロの扇子を見つけ、その竹をフイラメントに使ってみると、なんと200時間も灯ったのです。
そこで、全世界へ竹の材料を探すため20人の探検家を派遣したのです。
1880年、エジソンの助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日。
時の首相伊藤博文、山県外務大臣と面会、「竹を探すなら京都」とのアドバイスを受けます。京都にやってきたムーアは、今度は初代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」とアドバイスを受けます。
そして、八幡男山付近の竹を使ってみると約2450時間と言う驚異的数字が出ました。
エジソンは、更に最良を期す為細かい指示を出しました。
肥料の使っていない8年から10年ものの真竹を10月から12月に収穫し、根から1メートル上の12節で外皮を1センチ幅にして100本づつに束ねて納品めるようにと。
こうして、八幡の竹は1894年までエジソン電灯会社に輸出され、何百万個のフィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのです。 |
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エジソンの白熱電球は最初から採算割れした低価格で販売したが、低価格ゆえに大量に普及し、製造コストも下がり、3年後には全ての研究開発費や製造コストの赤字分を取り返し、大きな利益をもたらしたと言います。
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実はこの間の資金面で忘れてはならない、多くのエジソンスタッフの一人に弁護士のラリーがいます。
白熱電球の将来性をエジソンに認識させたのも、完成した白熱電球をヨーロッパに普及させたのも彼の力によるところが大きいと言います。
エジソンは特許権の販売交渉、国内外での事業提携や企業設立についてラウリーに自由裁量権を与えた。
金融界や政界と密接なつながりを持ち、イタリア人の金融の大物エジスト・P・ファブリとは長年の友人であった。
ラウリーはエジソンの研究開発資金調達という点でなくてはならない人物であった。
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余談だが、メンロパークの魔術師はオズの魔法使いのモデルになったと言う話です。 |
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