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発明王エジソン

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発明を志す者は必ずエジソンを意識しているはず。
店主も小学校からエジソンの事は知っているが、断片的なエピソードだけの知識だったので、まとまった形になるようトーマス・アルバ・エジソンについて調べてみました。
   
  ■ エジソンの生い立ち
エジソンの不屈の精神力、超人的努力を可能にした健康で長寿な肉体を作ったDNA、探究心と人の役に立つという使命感。
これらを語る時、エジソンの生い立ちを抜きには理解できない。


エジソンは製材所を経営する父サミュエル・オグデンJr・エジソンと、宣教師の娘で、小学校教師の経験を持つ母ナンシー・エリオット・エジソンの7番目の子供として1847年2月11日にオハイオ州で誕生した。
祖先は150年前にオランダから移住して、アメリカ・カナダ独立戦争を戦っている。
祖父は102歳の長寿で、超人的努力を可能にした健康な肉体も84歳の長寿もそのDNAによるものだ。

エジソンは優秀な児童ではなくADHD(注意欠陥・多動性障害)であったという話は良く知られている。
「なぜ」を連発し、1+1=2と教えられても鵜呑みにする事が出来ず、1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なのと先生に質問して、「エジソンの頭は腐っている」と言わせてしまったと言う。

そのため、小学校に入学するもまもなく退学させられ、母ナンシーが教えることになったのですが、その事が発明王エジソンを誕生させる事になるのです。

父親からは疎まれていたようだが、宣教師の娘で慈愛心に溢れ、小学校の教師の経験を持つナンシーは頭ごなしに押し付けるより、エジソンが何をしたいのか話を良く聞きました。
旺盛な好奇心ゆえに周囲の大人を困らせるエジソンでしたが、ナンシーはその中に科学者として大切な飽くなき探究心を見ていたのです。

地下室を実験室として与えられると寝食を忘れ、次々と実験を繰り返し湧き上がる疑問に答えを見出そうとしました。
またナンシーは歴史・数学・電気・文学も教えました。
毎日3冊は本を読み、生涯に1万冊は読んだという読書の習慣はこうして培われました。

同時に、働く事の尊さを学ばせるために仕事の手伝いや野菜売りもさせました。
後にエジソンが自分にとって最も大切な教えだったと振り返ったのが、
人間は人類のために努力して生きなければならない」と言うナンシーの言葉だった。

エジソンが23歳の時、母ナンシーは後の偉業を見ることなく急死しますが、「僕を理解し、才能を開花させてくれたのは母だけだ」とひどく悲しんだそうです。

  ■ 発明人生のスタート


地下の実験室を離れ、グランドトランク鉄道列車の新聞売りとなったのは12歳になった時であった。
実家が貧しかったわけではなく、独立心の旺盛なエジソンは幼くして社会に飛び出していった
のです。
新聞売りの時間は、機関車往復の中でわずかなものだった。空いた時間がとても無駄に思えたので、車内で空いた時に実験が出来るよう機材を積み込み実験に熱中した。
帰りの時間まで図書館にも通って勉強した。
到着先では得意の八百屋も開いている。実験の費用を賄うためであったが、事業家としての片鱗も見せ始めていた。
後に振り返ってみるとエジソンの人生とは、発明と事業の連続であった。

新聞を売るだけでは飽き足らず、15歳で車内新聞「グランド・トランク・ヘラルド」を発行した。

車内の実験で火災を起こし、追い出されてしまったエジソンはみずから発行する新聞事業に熱中する。
これが大ヒットとなり、このままでも財を成す事が出来たろうが、記事にされた事で怒った男に川に投げ込まれた事から発行を止めてしまう。

マウント・クレメンズ駅の駅長の息子を偶然、事故から救った事から駅長に電信技術を学び、それから電信技師としてのキャリアをスタートさせることになる。

人並みはずれた努力でわずかの時間でモールス信号や電信キーを完全にマスターし、16歳で鉄道駅の電信員として勤務する。

電信員の仕事は、深夜でも1時間に1度「6」という数字を送信すると言う単純な仕事であった。時間を惜しんで勉強していたエジソンは、居眠りしていても自動的に発信する装置を考えた。
それまで、時々居眠りをして通信を忘れて怒られていたエジソンが、正確に通信してくる事を不思議に思った上司がこっそり覗きに来ると、寝ているエジソンの側らで装置が自動的に送信していた。

嘘がばれて職場を追い出されてしまうが、身に付けた高い技術でミシガン州、オンタリオ州、インディアナ州、オハイオ州、テネシー州などの鉄道駅で電信員として勤務しながら更に腕を磨き、1級通信士の資格を取得、二重通信方式の電信用中継器を試作、電信用中継器を開発などをした。

ある電信局で電信コンテストが開かれた。
相手はニューヨークのスピード王といわれている電信手だが、エジソンは彼を打ち負かすほどに熟練していたのだった

転々としていたエジソンは18歳でケンタッキー州ルイヴィルのAP通信支局に報道通信の通信員として勤務した。
この頃、自動調整機能付き中継器、増幅中継器を構想したり、・マイケル・ファラデーの「電磁気学」を独学で習得した。
エジソンの科学の師はファラデーだと言う説が有ります。二人の間には研究の進め方に似た考え方があったようです。

21歳になるとウェスタン・ユニオン社のボストン支局に電信技師として勤務。
この時電気投票記録機を開発、生涯1000件を超える特許の第1号となる。

22歳の時、単身ニューヨークへ移転、ゴールド・アンド・ストック相場電信会社に勤務。
 監査役、後に通信部門の責任者を務める。
株式相場の電信表示器(ティッカー)を開発、特許取得
同社を退職、フランクリン・ポープと共同で「ポープ・エジソン商会」を設立。

23歳の時、この電信表示器(ティッカー)の特許を売却、4万ドル(現在の価値で2億円)を得た。
売却の価格を5千ドルの腹づもりでいたが、駆け引きが下手なエジソンは相手の言い値で売る羽目になったのだが、以外にも提示されたのは4万ドルの大金だった。
この資金で、ニュージャージー州ニューアークにティッカー製造工場と研究所を設立。

23歳の時、工場と研究所設立直後、最愛の母ナンシーを急病で失い悲しみにくれるエジソンを慰めたのは工場で一緒に働くメリーだった。
二人は2年後に結婚し、その後3人の子供と妻メリーに囲まれた満たされた家庭生活を送る。
毎日遅くまで研究所で過ごすエジソンにとっては、一杯のウイスキーとメリーとの会話が楽しみだったと言う。

エジソンは寝過ぎと食べ過ぎは人生の無駄と言った。
8時間以上も寝たらベットに入っていても熟睡していない時間が長くて無駄で、睡眠は4時間熟睡すれば充分。
腹一杯食べたら消化するのに時間と体力を必要とするから無駄で、普通の人が食べている半分の食事で充分と言いこれを実践した。

ここで29歳までの7年間で122件の特許を取得している。
自動電信機、二重通信方式、四重通信方式、電気ペンなど、合理化と効率性による社会の経済効率に多大な貢献をする。エジソンの電信技術は、一通信士から今や世界最高レベルにまで発達してしまった。

他にも複写機・火災報知器・パラフィン紙など次々と商品を生み出すと同時、後に有名になる技術者達が彼の元で育っていった。
彼は、自ら寝る間も惜しんで研究するだけでなく、プレイングマネージャーとしても非凡な才能を発揮した。

しかし、エジソン自身は開発費にお金を使いすぎ、決して裕福ではなかった。
これは生涯において度々そういう時期があった。
時には、悪徳商人に権利を売ってしまったりと、後に親友のヘンリー・フォードが言ったとおり
、事業家としては一流ではなかったようだ。

1876年29歳の時ニューアークの工場を処分しニュージャージー州メンロパークに研究所を構えた。


■ メロンパークの魔術師
メンロパークの魔術師と呼ばれる快進撃が始まる。
メンロパークに移ると、さらに精力的に研究に没頭した。
最初は電話機の発明である。
アメリカの2大発明王として、エジソンとグラハム・ベルを挙げる人は多い。
同じ年に生まれた事もあり、何かと比較される二人だが、対照的でもある。
ベルはエジンバラ大学、ロンドン大学で学んだが、二人の兄弟を結核で無くし、ベル自身も余命6ヶ月と言われ療養のためスコットランドからアメリカに移住した。
家は三代続いた音声学者で視話法の研究者を父に持ち、母も難聴であった事から、ろうあ者に関心が深くボストンにろうあ学校を開いたり、ボストン大学で音声学を教える傍ら、音声の多重伝送を研究した。この研究の最中、偶然に、電磁石を使ったマイクの原理を発見し、電話機の発明を志した。
ヘレン・ケラーにアン・サリヴァンを家庭教師として紹介したのはベルで以後ケラーと生涯交流があった。
エジソンが創立期に関係した後の世界的企業G・Eに対しベルの創立した電話会社AT&Tもアメリカを代表する巨大企業になり、ベル研究所はノーベル賞も輩出する世界的研究所になる。
電話機の特許に関しては有名なエピソードがある。
最初に電話機の特許を申請したのはエジソン(代理人の弁護士がエジソンに断りも無く出したと言う話もある)だったが、原理が大まか過ぎて拒絶されている。その後ベルが出願して、2時間後イライシャ・グレイ(後にファクシミリを発明)が出願したが、ベルの特許となった。
アメリカは当時も先発明主義だったはずだから、先に出願されても権利をとることは不可能ではなかったはずだが、グレイは諦めた。

権利はベルに下りたが、実用的な電話機として完成させたのはエジソンである。
ベルやグレイの電話機が聞き取りにくく、とても使える代物ではなかったのに対し、素材に木炭を使う事で難聴のエジソンでも聞き取れる優れものに完成させた。炭素マイクロホンと命名されたこの技術は、現在の電話機の原型となっている。
この時エジソンは30歳になった。

この年もう一つ大発明をしている。
電話機の発明の中で、音声を記録できないだろうかと考えた。センターに伝言をしておくと、後で聞きに行く事が出来る伝言板のようなシステムを考えたと言われている。

エジソンの完成させた錫箔円筒式蓄音機は世間をあっと言わせた。
人々は特別列車でメンロパークを訪れ,時の大統領はホワイトハウスに彼を招いた。
誰かが隠れて口真似をしているに違いないと思った牧師が、とても覚えられない宗教上の言葉を長々と喋っても、そっくり返ってくるので、唖然としたという記録もある。

しかし、その性能はまだ実用的とは言いがたかった。
その改良に名乗りを上げたのは因縁のライバル、ベルだった。
彼は錫箔円筒の代わりにろうを塗布したボール紙円筒を考案し、聞きやすくするためゴム管のイヤホーンを付けた。

エジソンは5日も不眠不休で更にその上を行く改良をしたと言われている。

ベルの元で働いて、その後独立して研究に取り組んだエミール・ベルリナーは円盤を用いることで針の縦揺れを横揺れに変える構造を考えた。現在に近いものである。

エジソン、ベル、ベルリナー、3人の開発競争はその後も繰り広げられ、音楽業界を発展させる源動力となる。

白熱電球が発明されるまで、人類は長い間灯りと言えば蝋燭やランプのように火を燃やす方法しかありませんでした。
火を使わない灯り、それも昼間のように明るかったらどんなに素晴らしいだろう。
長年の人類の夢を実現したのはイギリスの薬品工場経営者スワンが趣味的に発明した白熱電球でした。
しかし、その寿命は40時間でした。
スワンが白熱電球を発明したと聞くと、1878年31歳の時「エジソン電灯会社」を設立し、白熱電球の本格的な研究に取り組みます。
最初に作ったものは木綿糸にススとタールを塗ったものを焼いて炭化させたものをフィラメントに使いました。その寿命は45時間。スワンの白熱電球を上回りますが、エジソンは実用化には600時間の寿命が必要と考えていたので最良の素材を探す長い研究が始まります。

しかし、この白熱電球を見ようと人々はメンロパークに押し寄せました。

余談ですがスワンは特許には熱心でなく、後にエジソンと特許係争を繰り返すが、1883年には和解してエジソン&スワン電灯会社を設立し、電灯生産を独占した。
 
全世界から集められた6000種類にも及ぶいろんな材料を炭にして実験をしていたエジソンですが、ある日、机の上にあったシュロの扇子を見つけ、その竹をフイラメントに使ってみると、なんと200時間も灯ったのです。
そこで、全世界へ竹の材料を探すため20人の探検家を派遣したのです。

1880年、エジソンの助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日。
時の首相伊藤博文、山県外務大臣と面会、「竹を探すなら京都」とのアドバイスを受けます。京都にやってきたムーアは、今度は初代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」とアドバイスを受けます。
そして、八幡男山付近の竹を使ってみると約2450時間と言う驚異的数字が出ました。

エジソンは、更に最良を期す為細かい指示を出しました。
肥料の使っていない8年から10年ものの真竹を10月から12月に収穫し、根から1メートル上の12節で外皮を1センチ幅にして100本づつに束ねて納品めるようにと。
こうして、八幡の竹は1894年までエジソン電灯会社に輸出され、何百万個のフィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのです。

エジソンの白熱電球は最初から採算割れした低価格で販売したが、低価格ゆえに大量に普及し、製造コストも下がり、3年後には全ての研究開発費や製造コストの赤字分を取り返し、大きな利益をもたらしたと言います。
実はこの間の資金面で忘れてはならない、多くのエジソンスタッフの一人に弁護士のラリーがいます。
白熱電球の将来性をエジソンに認識させたのも、完成した白熱電球をヨーロッパに普及させたのも彼の力によるところが大きいと言います。
エジソンは特許権の販売交渉、国内外での事業提携や企業設立についてラウリーに自由裁量権を与えた。
金融界や政界と密接なつながりを持ち、イタリア人の金融の大物エジスト・P・ファブリとは長年の友人であった。 ラウリーはエジソンの研究開発資金調達という点でなくてはならない人物であった。

余談だが、メンロパークの魔術師はオズの魔法使いのモデルになったと言う話です。


■ システムの発明
エジソンの発明は物よりシステムの発明であった
白熱電球を発明したが、エジソンが見ていたのは、発電、送電、電気工事、料金徴収など全体的な電気事業のシステムだったのです。
電球をつけるためには、発電機を作り、送電線を引き、家の電気工事をやる必要があり、そのために必要な発電機、送電システム、ソケット、スイッチ類、絶縁物などの発明も急がれました。
実は不眠不休の研究で、1880年の1年間だけで電気関連で60件の出願が有ったと記録されています。
メンロパークは不夜城と言われていました。

電気機関車の構想を持っていたエジソンのところに電気機関車を発明したと言うニュースが飛び込むと、完成したばかりの直流発電機に電気を流して直流モーターとして使い、先の電気機関車より高性能なものをすぐさま作ってしまった。

蒸気機関を使った大容量直流発電機を完成させ、直流送電システムを完成させたエジソンは
1881年「エジソン電気照明会社」を設立。続いて「エジソン機械工場」「エジソン電気管会社」「エジソン電球工場」などを設立していく。

1881年パリ国際電気展に白熱電球を出品したが、その責任者はチャールズ・バチュラーで、エジソンの研究でアイデアを形にし、実験をする上で欠かせない職人の親方だった。
パリではバチュラーは200馬力の発電機を持ち込み1200個の白熱電球を灯して、度肝を抜いて、エジソンに名誉賞を獲得している。

1882年エジソンは35歳になっていたが、ロンドンに初めての中央発電所を、続いてニューヨークの商工業集中地区であったパールストリートに発電機6台を並列した540kWの火力発電所を建設して、運転を開始する。

初日400個の白熱電球に供給しただけだが、1年後は11555個に、5年後にはこの中央発電所事業は黒字化して、電気事業の将来性を証明して見せた。

1883年、送電方式に三線式送電法を採用する。長距離になるほど電圧降下の問題が無視できなくなってきていた。
交流の方がロスが少ないが 直流にこだわるエジソンが採用したのが三線式送電法であった。
これは二線式に比べ、銅の使用量を60%も節約できたのだ。

1883年、最愛の妻メリーを病気でなくします。
悲しみを紛らわそうと一層研究に励んだエジソンは、蓄音機を改良し、現在に近い高性能に仕上げた。
蓄音機の開発競争は1915年エジソンが最後に商品化した〈エジソニック〉という蓄音機まで続いたと言う。

1884年、後の真空管発達の基礎となるエジソン効果を発見特許を出願している。

1885年、38歳のエジソンは18歳のマイナに恋をし熱心に求愛し次第にマイナの心をつかんで行きます。そして結婚、マイナはエジソンに献身的につくし、大好きなベートーベンをピアノで弾いてエジソンを癒してくれました。
その後3人の子をもうけます。

順調なエジソンの直流電力事業にかげりが見え始めたのは1880年代の後半からだった。

その中心になったのが、ウエスティングハウスでした。
ウエスティングハウスも生涯に400の特許を取得している発明家ですが他人の発明を組み合わせて事業を成功に導くプロジューサーとしての才能に長けていたようで、早くから交流による電力事業に目をつけていました。
電気技師のスタンリーからエジソンの発電機の欠点を補う直流の自己調節式発電機を買ったことによって彼の電力事業はスタートします。

続いて、ゴラールとギブスの変圧器を知るとこれを注文し、アメリカ国内での特許権を5万ドルで確保すると、スタンレーに依頼して、ゴラールとギブスの変圧器を使った発電、送電システムを1886年完成させたのです。

1887年、テスラは交流発電機による電力輸送と、誘導電動機に関する特許を出願しました。
元々、エジソンのもとで働いていたテラスは交流の有利性をエジソンに熱心に訴えていましたが、直流にこだわり続けたエジソンは聞き入れてくれませんでした。

仕方が無く、独立して交流発電機による電力輸送と、誘導電動機に関する技術を完成させたのです。
送配電において直流と交流のどちらを用いるべきかの争いで、テスラの誘導電動機の出現は、交流の優位性を決定づけるものとなりました。
ウェスティングハウス社はテスラの特許を買収し、ナイアガラ水力発電所の運営を成功させました。


エジソンの直流とウエスチングハウスの交流との論争は1893年、シカゴ万国博覧会の電力供給が交流方式に決まる事で交流システムに軍配が上がり、エジソンは電力事業から敗退していく事になります。

■ ウェスト・オレンジ研究所
ウェスト・オレンジ研究所
メンロパークを引き払って一時ニューヨークに住んでいたエジソンでしたが、1887年、ウェスト・オレンジにメンロパークの10倍規模の研究所を作り生涯ここで研究に没頭する事になります。

エジソンが知っていたのか、エジソンの曽祖父であるジョン・エジソンは、1730年頃アメリカが独立する前、広大な牧場を経営していました。
その場所がウェスト・オレンジだったのです。

この頃は電力事業で、潤沢な資金があったと見え素晴らしい研究所でした。
研究所の近くには1885年に結婚した妻マイナのために「グレモント」と呼ばれる邸宅を建てました。  

1888年エジソン系列会社が合併し、「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」社が発足。

蓄音機の研究過程で、音と映像を記録再生できるものを考えていたエジソンは1889年キネトスコープを発明する。これは現在の映画のように大勢が見られるものではなく、箱の中を覗き込んで見るものだった。

エジソンの発明と言う知名度と珍しさで、キネトスコープの商業的利用は一時的に成功するが、1895年にフランスのルミエール兄弟により発明された「シネマトグラフ」に取って代わられる。これは現在の映画の原型となります。
しかし、「シネマトグラフ」方式の「バイタスコープ」を発明し、撮影、フイルム、映写機や周辺機器の特許を独占していきます。

1890年エジソンの関心は鉄鉱石の鉱山経営に向いていきましてた。
ここでも様々な鉱山機械を発明し、良質の鉄鉱石を産出しました。

1892年電気事業で劣勢になってきた「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」は「トムソン・ハウストン」と合併。この時エジソンは経営から離れると共にエジソンの名前が外され、新会社は
「ゼネラル・エレクトリック」なりました。

現在従業員30万人を抱える世界企業GEです。

一説によると、ウエスチングハウスとの戦いで、交流の危険性を宣伝するため卑劣な手段を使ったり、頑固に直流にこだわった事が新「ゼネラル・エレクトリック」の経営陣の怒りを買って、新会社からエジソンの名前を外したと言う説もあります。

1896年「エジソン電気照明会社」に17歳で就職しずっと技師として働きながら、自動車の研究をしていた16歳年下のヘンリー・フォードを紹介され、将来二人は無二の親友になります。
フォードのベルトコンベアーによる大量生産のシステムはエジソン鉱山の選鉱機のベルトコンベアーがヒントと言われている。
1898年エジソン鉱山より低コストの鉱山が発見され、半分の価格で大量に採掘され始めたため、鉱山を閉鎖し事業を停止した。全財産を投入して始めた事業だっただけに、このダメージはとても深刻なものだった。

1900年蓄電池の改良に取り掛かります。

エジソンが唯一研究途中で諦めたのが飛行機の発明、最も苦労したのが蓄電池の発明と言われる通り、10年の歳月と現在の価値で50億円の開発費がかかって完成したものは、現在のアルカリ電池の原型となるものであった。

1901年54歳のエジソンはセメント事業を始める。
当時のアメリカは急成長を遂げ、建設ラッシュを予測してセメント会社を興したエジソンは、セメント製造ラインでも独特の発明をし、世界最高の性能の設備を作っていた。

一流の設備を持つセメント会社は、たちまち5大セメント会社に肉薄し鉱山で失った巨額な損害は、ここで取り戻すほどの利益を上げるまでに成長した。
次にエジソンは、セメント需要を増やすためにコンクリート住宅の設計をした。新しすぎる建築工法は多くの建築家たちに反対されたが、時間は要したが、確実に社会に浸透していった。

1908年「バイタスコープ」の特許を武器に活動写真特許会社を設立し映画事業の独占を狙いますが、ニューヨークを追われた映画人たちはカルフォルニアに移ります。

これが、ハリウッドになります。

また政府もエジソンの独占を許さず、独占禁止法違反とします。
 
■ 第一次世界大戦
第一次世界大戦では合衆国海軍顧問委員会の会長として活躍します。
1914年、ウェスト・オレンジ研究所は焼失してしまう。
長年の研究成果が全て消えてしまったと嘆くかと思いきや、めげないエジソンは再起を宣言する。
戦争が嫌いなエジソンは軍事の発明はしてこなかったが、第1次世界大戦が始まると要請され、1915年合衆国海軍顧問委員会の会長となり、合衆国のために発明をする事になる。
着手中の研究と実験とを一時放棄して、軍事技術の問題に没頭することとなった。

その課題とは、特に脅威を感じていた潜水艦に対するものだった。潜水艦探知用聴取装置、潜水艦用水素検出器、水中探照燈、船の急速回転方などであった。
ドイツ将校をして、エジソンは100個師団に匹敵する脅威と言わしめた。

この委員会から生まれた無線用真空管は戦後ラジオの普及に欠くことのできない発明であった。

そして戦争が終わった時、1918年エジソンは71歳になっていた。

その後事業化こそしないが、再建したウェスト・オレンジ研究所で死ぬまで研究に没頭した。

■ 世界の偉人眠る
1922年75歳の時
「ニューヨーク・タイムズ」紙の投票で「最も偉大な生きているアメリカ人」に選ばれる。

1927年人80歳にして人工ゴムの研究をしていた記録がある。

1929年白熱電球発明50周年記念祝賀会が世界各地で開催される。

自動車で財を成していたヘンリー・フォードはかつてエジソンが使った列車の実験室やメンロパーク研究所を当時のまま忠実に再現した博物館を建設すると、白熱電灯50周年祝賀会を催した。
エジソンを 「世界最大の科学者であり、世界最悪の企業家である」と評していたが二人は強い友情に結ばれていた。
大勢の前で挨拶する事は皆無に近いエジソンだったが、この時はこう挨拶している。
「ヘンリー・フォードに対する感謝の気持ちはとても言葉では言い尽くせない。しいて強い言葉で言うならば、最高にして、最大の、もっとも豊かな意味において、こう申し上げることができます。『彼は私の友人だ』と」

1931年84歳、10月18日、ウェスト・オレンジの自宅で死去。


葬儀にはアメリカ国内はだけではなく、世界各地から多くの人々が集まった。

エジソンへの弔辞をフーバー大統領が述べている。
「世界の人類は、今ここに眠る偉人の遺産を受け、長くその恵みに浴することだろう。」
フーバー大統領の呼びかけでアメリカ国内ではこの夜、エジソンの発明した電灯を1分間消灯をしてエジソンの冥福を祈った。



「天才とは%の才能と99%の汗のことである」とは有名な言葉だが、エジソンに取材した記者のアレンジでエジソンは本当は記者にこう言ったそうだ。

   「1%のひらめきが正しくなければ99%の努力は無駄になってしまう。
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